三木多聞
東京国立近代美術館
1976年10月2日~11月14日
今世紀初頭,フランスにおこったキュービズムが,近代美術の展開の上で極めて重要な役割を果したことは,あらためて指摘するまでもない。ピカソとブラックによってはじめられたこの革新運動は,それまでとは全く異なった造形的新秩序の確立を目ざし,視覚の一大変革をもたらして,それ以後の美術に広範で絶大な影響を与えたが,もちろんキュービズムだけが孤立して突然あらわれたわけではない。20世紀初頭のヨーロッパは,いろいろな意昧で大きな転換期に当り,美術界でもフランスでキュービズムに先立つフォーヴィズム,ドイツでプリュッケ(橋)やブラウエ・ライタ一(青騎士)などの表現派,イタリアの未来派等々,革新的な芸術運動が各地で続々おこった。そうした革新的な気運が19世紀後半から徐々に醸成されてきたことはいうまでもない。
キュービズムがいつからはじまったかについては,いくつかの考え方があるが,詩人アポリネールの紹介でほとんど同年齢のピカソとブラックが出あった1907年を起点とするのがより妥当だと思う。この頃のピカソとブラックが,ともにセザンヌの強い影響を受けていたことはよく知られている。19世紀と20世紀の接点に立つセザンヌは,いうまでもなく,印象派の人びとの視覚的リアリズムをのりこえ,伝統的な遠近法を排して,形体と色彩に自律的な機能を発揮させ,絵画を秩序ある均衡のとれた世界として堅牢に構築した。「自然を円筒と球と円錐体によって処理しなけれぱならない」というセザンヌの言葉は有名であるが,そのセザンヌを手がかりにそれまで互に別々に独自の方法で新しい造形をもとめていたピカソとブラックが出あうことによってキュービズムは急速に進展することになったからである。この年はサロン・ドートンヌでセザンヌの回顧展も開かれている。
1908年ブラックは南仏エスタック,ピカソはラ・リュ・デ・ボワで,それぞれ抑制された色彩を使いながら,自然の形体を要約しながら,空間の新しい秩序の構成をもとめた。この時期のものをセザンヌ風キュービズムとする見方もある。この年ブラックはカーンワイラー画廊で個展を開いたが,このときの評にルイ・ヴォークセルが使った「立方体」という言葉が,キューピズムの名称の基になったといわれている。伝統的な遠近法や明暗法を使わないで,ものの実在性を描こうとするキュービズムでは,ピカソもブラックも1909年から10年にかけて,対象の解体がいっそう進み,いわゆる分析的キュービズムは1911年頃に頂点に達し,明確な輪郭をもたないものまであらわれ,対象は自然の外観とは著しく異なるものとなった。アポリネールのいう「キュービズムは,視覚の現実からではなく,概念の現実から」描くことになる。キュービズムが,先行したフォーヴィズムの現象的・感覚的な慣向に対して,概念的・知的であるといわれるのもそのためである。「観照者は,内的一貫性を持つ絵画構造の知的かつ感覚的な魅力に喜びを覚える」(エドワード・フライ)ことになる。実際ピカソの「ヴォラールの肖像」(1909一10)を見ると,「もし社会的・歴史的な要素をしばらく忘れることができるとすれば,ルノワールが描いた肖像画は,ピカンのキュービックな肖像画よりも,ラファェロの描いた肖像画にいっそう親密に思われるだろう」(ジョン・ゴールディング)といえる。
ピカソとブラックによって推進されたキュービズムは,美術界に強烈な刺戟を与え,やがてその影響は急速に拡まった。19l1年春のアンデパンダン展第41号室には,グレーズ,メッツァンジェ,レジェ,アンドレ・ロート,ラ・フレネー,ル・フォーコニエ,ドロ一ネーらの作品が集り,キュービズムの最初の集団大展示となった。また同年のサロン・ドートンヌにもグレーズ,レジェ,メッツァンジェ,ロート,ジャック・ヴィョン,マルセル・デュシャン,ラ・フレネー,ル・フォーコニエらが出品し,ともに賛否をめぐって激しい論議をまき起こした。ブラックやピカソはパリのサロンにあまり参加しなかったので,これらの集団大展示によって,キュービズムの名称が一般に使われるようになった。こうしたキュービズムの拡大にはアポリネールのような人びとに負うところも大きかったし,グレーズとメッツァンジェの共著の『キュービズムについて』(l912)が理論書として大きな影響を与えたが,この本では,キュービズムの絵画が非装飾的で自律的なものでなけれぱならないこと,キュービズムでは形体はある理念の表明であることなどが主張された。ブラックやピカソと,それ以外の人びととの間には,それぞれかなりニュアンスの相違が見られるが,各自がそれぞれの方法で,伝統的な視覚から離反し,面の折りたたみ,積み重ね,量塊の多面的な分割などによって,造形的な新秩序をもとめた。
一方,ピカソやブラックは1912年頃から新しい局面を展開しはしめた。極端に抑制されていた色彩が豊かさをとり戻しはしめ,対象の形体もいく分認識し易くなり,ブラックがトロンプ・ルイユ(だまし絵)風に木目を描写し,ブラックとピカソは相次いで既成の印刷された紙を画面に貼りつけるパピエ・コレを試みはしめた。こうしてピカソとブラックの綜合的キューピズムの段階を迎えることになる。バピエ・コレの発明は,キューピズムの絵画に新しい物質感を導入するために行われたものと思われるが,パピェ・コレから発展したコラージュ(貼り合せ)が具体的なさまざまなものを画面に登場させたことは,美術に全く新しい領域をもたらした。タブロー・オブジェ,あるいはオプジェとしての絵画が伝統的な絵画空間からの離脱を意昧したことはいうまでもないし,コラージュがダダやシュールリアリズムを経て,現代美術に広く深く関連していることもよく知られている。
ピカソとブラックのキューピズムが,綜合的キュービズムの段階に変質して行ったのと並行して,急速に拡大したキュービズムにさまざまな分化作用が見られはしめた。1912年のアンデパンダン展にもキュービズムの集団展示が見られたが,同年l0月ボエシー画廊で開催されたセクション・ドール(黄金分割)展は重要なデモンストレーションとされている。ジャック・ヴィョンを中心に,デュシャン=ヴィョン,マルセル・デュシャン兄弟,グレーズ,メッツァンジェ,ピカビア,ロート,ラ・フレネー,レジェ,マルクーシス,グリスらが参加したこの展覧会期中にアポリネールが講演し,それは翌年刊行された著書『キューピズムの画家たち』に収録されている。この展覧会をめぐって「メッツァンジェとピカソとの違いは,ルノワールとセザンヌを隔てる違いよりも明確であり,またフェルナン・レジェとマルセル・デュシャン,ピカビアとラ・フレネー,あるいはA‐グレーズとフアン・グリス,といらた人びとの相違は著しい」(モーリス・レイナル)といわれたように,各自の個性によるキュービズムの分化が判然としてきた。このことは,形体が復活しはしめた綜合的キューピズムを一種の後退と受けとった人びとが別の方向を打ち出そうとした動きとも解することができる。
ピカソ,ブラックに次ぐ典型的なキュービストという見方もされるフアン・グリスは,いち早くコラージュをとり入れ,独自の密度のあるキューピズムを展門した。グリスの場合,いっそう対象の原型を保ち,屈折しえた複雑な面を組合わせ,その構成に黄金分割の精密な比例の導入を目ざした。フェルナン・レジェは,ピカソ,ブラックとは別の角度からセザンヌを研究し,円筒形の形体を基本に,色のコントラスト,直線と曲線のコントラストによって近代的リズムやメカニズムを表現しようとし,キュービズム・メカニックとも呼ぱれた。ロベール・ドローネーは屈折した「エッフェル塔」の連作でキュービズムに近接したが,光と色彩のはなやかな交錯、音楽的なリズムをもとめ,1913年アポリネールがオルフィスムと命名した非具象の方向に向った。ピカソとブラックがあくまで静的な世界を対象としたのに対し,デュシャンやラ・フレネーは日常的ダイナミズムの表現を目ざしたが,機械文明を反映したダイナミズムの迫求は,同じ頃イタリアの未来派に見られた。
「1913年及び1914年の間,パリの非常に多くの芸術家たちがキュービズムに転向したので,キュービズムは一時アヴァン・ギャルドの絵画を意昧する世界的な言葉となった」(フライ)。ヨーロッパ各地やニューヨークにキュービズムが紹介されたため,キュービズムが広範で絶大な影響を与えたことは,ブラウエ・ライターのパウル・クレー,未来派のセヴェリーニ,シュプレマティズムのマレーヴィッチ,一時期のシャガールらの例からも明らかである。
元来,二次元の絵画世界の問題としておこったキュービズムは,アルキペンコ,リプシッツ,ローランス,ザッキンらの彫刻にも影響を与えたがもともと具体的な立体である彫刻の場合には,絵画におけるほどの革新的な意義をもたないけれども,反自然主義的彫刻に先鞭をつけた意味は大きい。